なぜ音楽は僕らの心を動かすのか。宇多田ヒカルの「COLORS」を聴いているとき、僕の頭の中はこうなっている。

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宇多田ヒカル - COLORS

 

 

 

こんにちは、こんばんは犬飼です。

今日は音楽について語ろうと思います。

 

 

「音楽」なんですが、最近は僕は、あまり聴きません。

なんか聴かなくなりましたね、10代の頃と比べると。

 

 

そんな音楽(どんな音楽?)なんですが、

みなさんは音楽を聴くのって、何で楽しいですが、何で好きですか?。

 

音楽ってなんで、いざ聴くとすごい感動するって思うんでしょう?

 

なんで音楽は人の心をこんなに動かすのか。

 

 

そのちゃんとした答えとか原理(げんり)とかは僕は知らないのですが、

僕が音楽を聴いて楽しい、すごい感動するって思えるのは、

音楽を聴いている間、自分の頭の中が「音楽」に影響されて『バズる』からです。

(流行りの言葉を使ってみました。)

 

 

どういうことかというと、

音楽を聴いていると自分の頭の中に「色々なイメージ、心象、物語』が飛び交うのです。

 

これって僕だけでしょうか?

音楽を聴くと、自分の頭の中に、色々なものが飛び交うのは。

音楽を聴くとその曲の音に合わせて、自分の脳が様々な『イメージ(=心象)』を創り上げていくのは。 

 

 

でもこれが、この曲の音を聴くと僕らの心が創り出す「イマジネーションの爆発」が、

人々が音楽を聴くと心動かされるものの「正体」なんじゃないですかね?。

 

音楽を聴くと僕らの頭の中が「異常」な状態になるから、「日常」とは違った心持ちになる、日常では体験できない心の持ちようになるのではないでしょうか。

 

 

『音楽の音→耳→脳→心』といった経路で、

僕らの頭の中をバズらせる、僕らの心を掴む。

そうして音楽は僕ら麻薬的にかき乱す、興奮させていく。

 

 

書いてることが分かりにくいと思うし(まあ僕は説明下手なんで)

もっと具体的に伝えるために、もっと体感的に分かってもらうために、

今回は宇多田ヒカルの「COLORS」という曲を例にとってみたいと思います。

 

 

宇多田ヒカルさんの「COLORS」という曲を聴いている間、

『僕の頭の中に何が飛び交っているのか。

僕はその曲の音から何を感じ取っているか、

その音から僕の脳は何を頭の中に創り上げているか。』を、

これから書いていきたいと思います。

 

 

YOUTUBE宇多田ヒカルの「COLORS」のPV動画があるので、

それを聴きながら、動画の再生時間に合わせて僕の頭の中に何が飛び交っていくのを見ていきたいと思います。

 

 

それではいきましょう。

 

 


宇多田ヒカル - COLORS

 

 

 

「再生時間 0:00~0:015」

 

再生時間 0:00秒から0:015秒まで。

 

音楽解解析第1回目ということで、

音楽におけるイントロの様子を詳しく見ていく。

 

イントロで音楽は、僕ら聴き手を誘惑していく。

僕ら聴き手を曲の世界に誘うため、強い引きで曲は僕らを引っ張っていく。

引っ張られて僕ら聴き手は「潜っていく」。「曲の世界」に入っていく。

 

イントロの音が繰り返し聴き手に注がれる。

「繰り返し」の魔力で、僕ら聴き手は簡単に曲の世界に引きずり込まれる。

 

そろそろ案内人(ボーカルの声のこと。今回で言えば宇多田ヒカルさん。)がやって来る。

僕らは彼女に、僕らの命運をゆだねていく。

 

以下詳しい解説。

 

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曲がはじまりました。

 

イントロが始まりました。

 

音楽のはじめ(今回の曲でのイントロ部分)というのは僕ら曲の聴き手の『潜りの時間』です。

 

まだ僕らは音楽と出会ったばかりで、まだ音楽とは「接触」できていません。

 

音楽と僕らは「接触」してない状態で、

だけど共にこの曲が創り出す曲の世界の中に『潜って』いきます。

 

『潜る』というのは、僕ら音楽を聴いている側が、今いる「現実世界」から離れて、

音楽が作り出す、それだけのシンプルな絶対的な世界に入っていく、没入していくということです。

 

その「潜り」というの行いは、暖かかったり、寒かったり(どっち?(笑))。

現実世界とは違う『体温』を持った世界に、僕ら聴き手は入っていきます。

その曲の世界は曲によって、また聴き手の気分・状態によって温かかったり冷たかったりします。

 

その「潜り」の中で僕ら聴き手は感じる『温度』というのはつまり、

僕ら聴き手がその曲の『揺さぶり』を感じ取っている証拠です。

 

音楽というのは曲と聴き手との『駆け引き』のし合い。

 

その駆け引きの『初手』として、

曲のイントロは僕ら聴き手を動揺させて、音の絶対世界に引きずり込む。

曲の世界へと僕らを『誘惑』する。

 

その曲の「誘惑」は強引でなければいけません。

強引に強引に、僕ら聴き手を引き込まなければいけません。

 

強引でなければ、僕ら聴き手はその曲を聴こうとは思わないから。

僕らがその曲を聴きたい、その曲が創り上げる世界に入りたいと思わせるように、

曲は必死に僕らを『誘う』。 

 

なので基本的に音楽というのは『ドS』です。

『ドS』な曲じゃないと売れません。

 

聴き手をより多く引き付けるため、

音楽はより自分を磨く。

たくさんの人に聴いてもらうため、

音楽はどんどん聴き手を誘うフェロモンを出す。

 

  

話を戻してこの時間帯で行われている僕ら聴き手の『潜りの中で感じる感情』について、

もう少し詳しく解説していきます。

 

音楽が再生されて、僕らは「潜って」いきます。

「潜らされて」いきます。引きずられていきます。引っ張られていきます。

 

その曲の引っ張る力が強ければ強いほど、僕らは『気持ちいい』です。

その曲の『誘惑』が魅力的であればあるほど、僕らの気持ちは曲に注がれていきます。 

 

「気持ちいいっ」て思うことは大切です。

「惹かれる」って思う気持ちはとても価値がある感情です。

 

現実世界でも僕らは一緒にいて気持ちいいなと思える人と、

僕らは共にいたいと思います。

その人と「友」でありたいと思うし、「恋人」でありたいと思います。

 

 

気持ちいい、心地いいと聴き手に感じさせることが、音楽側にとっては大切です。

聴き手を離さない音楽の方が、『優れた音楽』と言えます。

 

 

話をイントロの音の様子について移していきましょう。

 

音楽が再生されて数秒は、イントロの音は「同じリズムの繰り返し」です。

 

「同じリズムの繰り返し」というのは、音楽側の優しさでもあり、

またそれは音楽側のテクニックでもあります。

 

そのテクニックというのは例えるなら『睡眠術』のようなものです。

あなたはどんどん眠たくなる、眠たくなる・・・的な感じですかね。

 

『繰り返しのリズム』によって、僕ら聴き手は曲の「術中(じゅっちゅう)」に落ちていく。

『繰り返しのリズム』を聴くことによって、僕ら聴き手は容易に曲の世界へと潜っていく。

 

 

僕らというのは「繰り返すこと、繰り返されること」が好きです。

 

これは例えば、大学入試の現代文で習いませんでした?。

 

言いたいことはひとつだけ、主題を繰り返す。

(この話は関係ないか(笑)。ちょっとは関係あるかも。)

 

繰り返されることで、僕らはやっとその『意味』が分かる。

繰り返されることで、僕らはその世界を体感出来てくる、想像できてくる。

「繰り返し」をしているなあと思っていて、

気づいたら自分は以前いた所とは全く『別』のところにいる。

 

 

現実世界でも僕らは「繰り返し」が好きなので、

常に「繰り返し」の中で踊っています。

 

今日も昨日と変わらない。平凡な日常。

だけどその平凡な日常を作っているのは、平凡な毎日の「繰り返し」。

 「繰り返し」の中にこの日常がある。

今の僕らの日常を作るのはこの「繰り返し」。

この繰り返しから抜け出すには、別の「繰り返し」を見つけるしかない。

そうして別の「繰り返し」の中で、またそこに日常が生み出される。

 

 

僕らは「繰り返す」ことが好きだけれど、

また逆に「繰り返し」の技にハマりやすい、陥りやすい。

 

繰り返しのテクニックに、かんたんにヤラレル・・・。

曲の繰り返しの『魔術』に、簡単に惑わされていく・・・。

 

 

そんなこんなでこの曲の、「繰り返しのイントロ」は続きます。

聴き手の心はどんどんと、その音の世界が当たり前、つまり『日常』になっていきます。

曲の音を当たり前に感じて。

曲の世界にいることを、当たり前に感じて・・・。

 

 

そうしてその「繰り返しのイントロ」が終わるころには、

僕らと音楽とはシンプルな曲の世界に二人でいて、

気づけばとても近くに僕ら聴き手と音楽はいます。

 

 

さあ、ここからはじまります。

これから案内人(ボーカルの声のこと。曲の案内人)が、

僕ら聴き手を曲の世界の中を案内していきます。

 

 

はじまっていく(ボーカルの声がはじまる。再生時間0:15秒以降を聴く)前にやるとおもしろいことがありまして、

一旦YOUTUBEの再生ボタンを止めて、もう一度曲の頭から再生してみてください。

それでイントロをもう一度頭から聴いてみてください。

 

みなさんはどうか分かりませんが、

イントロの「繰り返しの音」が最初に聴いた時と違って聞こえませんでした?。

 

おもしろいですよね、これ。

 

これ理由があるんですが、答え言わないとこかな~。

(というか別に答えこれまでの説明で言ってるし)

まあ違って聴こえるということは、今の君はすでに『非日常状態』なんだよっていうことです(^^)。

 

僕らはもうすでに、曲が創る現実ではない世界に、足を踏み入れている。

 ここから出るには、現実世界に戻るには、案内人についていくしかない。

 

 

 

それでは再生時間0:15秒以降を聴いていきましょう。

 

 

 

 

「再生時間 0:15~0:31」

 

再生時間 0:15秒から0:31秒まで。

 

イントロ音が終わってボーカルの声が聴こえ始まるけれど、

そこに僕は少し抵抗感を感じる。

この抵抗感は赤子な僕ら聴き手の、「言葉」との最初の接触

 

ここから僕らは学びだす。

ここから僕らは成長していく。

 

疾風怒濤の成長体験が、今始まる。

 

音楽を追う行為が、辿り着けないボーカルの声を追う行為が、今始まっていく。

 

以下詳しい解説。

 

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はい、ボーカルの声がはじまりました。

 

ここで僕が感じたのは、僕らは一旦(音楽から)『距離を置かれたな』、ということです。

 

「音楽と距離を置かれた」とはどういうことか。

 

ぶっちゃけ僕は、このボーカルの声(宇多田さんの声)より、

再生を戻して先ほどの「イントロの繰り返し音」の方が心地いい、自分の心が惹かれると感じました。

 

「声」よりただの「イントロ音」の方が、僕を優しく包んでくれた。

「声」よりただの「イントロ音」の方が、僕を優しくすくい上げてくれた。

 

 

ここの説明難しいというか、なんでそうなるか、なんで僕は音楽と距離をおかれたと感じたかというと、音楽側に「言葉(歌詞)」が入ってきたからです。

 

ただのイントロ音とは違い、声には「言葉」があり、それに対して僕は「抵抗」を示した。

優しく包んだイントロ音とは違い、その声の「言葉」に嫌悪感を少し感じた。

 

説明するのが下手なんでうまく伝えれにくいんですけど、、

「言葉」というのは、僕ら聴き手はすぐには理解できないんですよね。

当たり前ですが。

 

ただの「音」よりも「言葉」はすぐには理解できない、「接触」できない。

音はただそのまま触れ合うことが出来るけれど、言葉は1つ段階を踏まないと自分の中に入ってこれない。

音はただそのまま触れ合うことが出来るけれど、言葉は1つフィルターを通さないと、自分の身体に溶け込んでこない。

 

 

この曲が創り出す音楽の世界には曲(音と声で構成されている)と僕という二人がいて、

イントロで繰り返しされることで二人だけの世界に僕はこの世界に慣れてきたのに、

急に「言葉」という別のものが入ってきた。

 

それは頭の弱い僕にとっては「拒絶対象」であり、「こわい」んですよね。

 

「言葉」には概念が必要だし、理解が必要だから。

(書いててちょっと難しいンゴ( 一一))

 

 

ただそれでもやっぱり必要なんですよね、「言葉」って。

深くなるためには。『深く”潜る』ためには。

 

深くお互いを知るためには。

 

 

イントロで僕らはイントロの音によって潜らされて、

この曲が創り出す世界では何も持たない、何も知らない、いわば『赤子に戻った感覚』になっています。

 

そこで急に「言葉」に出会えば、そりゃあびっくりすると思います。

 

 

ただここで重要なのですが、「人が最も輝くとき、人が最も美しいとき」というのは、

それは人が『成長』するとき、その姿です。

 

人が変わっていく様が、僕は人が一番美しさを持つ所だと思います。

人が強くなる姿こそが、人が最も輝いていると感じる所だと思います。 

 

 

そしてまた大切なことを言いますが、人は『言葉』とともに成長します。

言葉とともに、僕らは「加速度的に成長する」ことが可能です。

 

言葉が僕らヒトをヒトたらしめていく。

言葉が僕らを美しい姿へと変えていく。

言葉が僕らを子供から大人にさしていく。

 

その「成長の促し」を、曲におけるボーカルの声が担う。

僕らへの言葉の付与を、ボーカルの声が担当していく。

 

曲の中でボーカルの声というのは、ただの声、ただの言葉ではありません。

とても「栄養の高い」言葉です。

とても僕らを成長させてくれる塊のような言葉です。

 

その声を曲の世界で僕らはもらうことで、

赤子から一気の、疾風怒濤の成長体験を、音楽の中で僕らは体験します。。

(これが音楽を聴くと心地いいの正体!、なのかも)

 

美しさ=成長する姿=成長は言葉と共に

 

 

 

話戻して、曲を聴いていきます。

宇多田ヒカルが色々歌っています。

 

で、ぶっちゃけなんですが、音楽の歌詞って、音楽を聴いてる時って頭に入りますか?。

その流れてくる曲の歌詞を逐一理解しようとしますか?

 

僕の場合、あんまその時その時は入ってこないんですよね。

歌詞はそのまま通り過ぎるというか・・・。

あんまりその歌詞の言葉の意味を深くは取ろうとしない、深くは考えようとはしない。

 

 

ただその歌詞が終わって、「さっき何を言っていたっけ(=さっきどんな歌詞だったっけ)」と後ろを振り返る(=さっきの歌詞を思い出す)行為が、

どこか自分の本能をくすぐられるというか、くすぐったいと僕は感じます。

 

終わった歌詞を思い返す行為はくすぐったい。

理解できなかった歌詞の面影を探すのがこそばゆい。

 

終わった歌詞はもう通り過ぎてしまってすでにいないけれど、

その姿を追っている感覚。

ボーカルの声が僕らに伝えていたその時にはもう戻れないけど、そこに戻りたい感覚。

 

 

そのボーカルの声との距離が『永遠』に感じられて、その感覚がとても愛おしい。

掴めなかった歌詞の意味をずっと頭の中で求め続けているようで、

自分の頭の中に霧(きり)がかかったような感覚が、なんだかとても生温かくて心地いい。

 

 

僕にとって曲における歌詞というのはそういう存在で、

その言葉の「意味」よりも、後から「その言葉を追う行為・求める自分の気持ち」が、なんだかとてもこそばゆくてて、そのくすぐりがとても温かいです。

 

僕にとって音楽というのは、

「音が作り出した絶対世界の中で、言葉(=歌詞)が自分の先に行ってしまっているのを追う(=眺める)」行為だと思います。

 

ボーカルの声が発されている所には永遠にたどり着けないんだろうけど、

だけそその方向に惹かれる、焦がれる。

 

 

だから僕にとって音楽というのは言ってしまえば、『悲しいもん』だなと思います。

 

音楽というのは、絶対に触れないものを触ろうとしてる行為。

音楽というのは、絶対に到達できないものに届こうとしている行為。

音楽は「言葉」を追う行為。

音楽は言葉を追う過程で、聴き手が成長していく様子。

 

だから年齢を重ねると歌詞がついた音楽をあまり聴かなくなるのかもしれないと、

今気づいてちょっと悲しいです。

 

人は(音楽の中での)成長を求めないと、あまり音楽を聴かなくなるのかもしれません。

人は今の自分にある程度満足していれば、現実の世界に音楽以上の「言葉」があれば、

あまり音楽を聴かなくなるのかもしれません。

 

 

 

曲の続きを聴いていきましょう。

 

 

 

 

「再生時間 0:31~0:46」

 

再生時間 0:31秒から0:46秒まで。

 

僕ら聴き手はここにきて、この曲の世界に慣れてくる。

 

曲の世界に慣れてくることで、その世界の景色を感じれる。

曲と一体になっていくことで、この世界の常識が、聴き手の身体に浸み込んでくる。

 

そうすることで、聴き手の心に『写し』が映し出される。

 

聴き手の心の奥にある、普段出していない表情が現れてくる。

聴き手が心の奥にある、普段必要としてない自分が映し出される。

 

繰り返しの中で僕らは眠る。

繰り返しの中で僕らは踊る。

 

そうしてそうして、僕ら聴き手は強くなる。

 

眠りの中で僕らは自分を知っていく。

 

以下詳しい解説。

 

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 再生時間0:15秒からボーカルの声が始まって、

それから10秒ほどたって、

何もないと思っていた世界(=イントロで作り出された世界)を歌詞の後を追って聴き手は一人、歩いていたら、

徐々に周りが見えてきます。

この音楽の世界の風景が見えてきます。

曲が創り出す非現実の世界の雰囲気が、僕らの頭の中にも感じ取れてきます。

 

そこに映るのはなんでしょうか。

ボーカルの声に導かれて、その時僕らの頭の中に映し出されるはなんでしょうか。

 

 

これが、すごく大事ですよね。

この映し出されるものが、僕らが音楽を聴いて心地いいと感じるものにすごく関係しているものですから。

 

ここに映しだされるものというのは、『写し』です。

(写しが映し出される。)

『写し(=ボーカルの声によって僕らの心の奥から掘り起こされる、僕らの心の姿)』

が聴き手の目の前に映し出されます。 

 

音と歌詞(ボーカルの声)に引っ張られて、

聴き手の深層心理的なもの(=写し)が引っ張りだされます、映し出されます。

 

この「映し出されるもの」は人にとっては「キツイ」ですよね。

 

普段出してない、それは出さないようにしているものかもしれませんから。

 

だけどその「普段出してないものを出す」ことが、気持ちよさというものであり、

これこそが音楽の力でもあります。

 

普段しまいこんでいるものを、音楽の力によって引きずり出す。

日常では隠しているものを、さらけ出していく。

 

隠しているモノを出すというのは「神秘的」ですよね。

だっていわゆる「性行為」というのも、

普段隠しているモノを出すんですから(大爆笑)。

 

 

普段隠している、普段忘れている、普段現れていない自分を出す。

 

そういう『ドラスティックなこと』が、この時間帯、聴き手の中で音楽と共に行われていきます。

 

この僕ら聴き手の内なる動きは「精神的な運動」と言ってもいいかもしれません。

 

心の内側で巻き起こる精神的な運動。

自分の心の整理、掃除。

 

それはとても心地よく。

 

心地よさに、僕らは弱い。

「気持ちよさ」に、僕らは弱い。

自分を解放していく 『気持ちよさ』に、僕らは屈していく。

 

 

 

曲の中身をもう少し見ていきましょう。

再生時間 0:31~あたりで行われているのもイントロ同様「繰り返しのテクニック」です。

今の時間帯の「再生時間 0:31~0:45」は、

「再生時間 0:16~0:31」の繰り返し。

 

「再生時間0:16~0:31」のリズムを繰り返すことで、

まるで音楽は僕らをあやしています。

(あやすって久しぶりに使った言葉なんですが、あのお母さんとかが赤ちゃんをあやす、的な言葉のあやすです。)

 

「再生時間0:16~0:31」のリズムを繰り返すことで、

僕らはどんどんど、自分たちの隠していたものをさらけ出していきます。

 

僕らは「繰り返される」ことが好き。

僕らは繰り返しの中で、いつまでも眠っていたい。

 

僕らは繰り返されることで気持ちよくなり、眠たくなる。

 

 届かない、届かない。

(ボーカルの声がする方には)近づけない、近づけない。

 

 僕ら赤子は眠りの中で、成長していく。

僕ら赤子は繰り返しの魔法の中で、静かに自分の姿を体感していく。

 

少し僕らの「感度」が上がってきた。

少し僕らの姿が自分でも理解してきました。

 

曲は続きます。

 

 

「再生時間 0:46~1:03」

 

再生時間 0:46秒から1:03秒まで。

 

『上がり』を感じる時間帯。

僕ら聴き手の「成長」が終焉(しゅうえん)に近づく時間帯。

 

この時間帯で僕ら聴き手はこれまでを振り返る。

この曲で得たもの、この曲で感じたものを噛みしめる。

 

音楽は一瞬だ。

一瞬の中に多くのものが詰め込まれている。

 

その美しさとももうすぐ別れる。

僕らの『疑似成長体験』は、もうすぐ終わる。

 

 

以下詳しい解説。

 

 

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この時間帯前後で、僕ら聴き手は『上がっていく』。 

 

再生時間 0:46の4秒前ぐらいからその「上がり」の予兆はあります。

 

つまり再生時間 0:42秒あたりから、「上がっている」と感じませんでした?。

 

再生時間 0:42秒辺りから徐々に上に昇っているような感覚になりませんか。

 

自分の胸の辺りが熱くなるような。

気持ちが上がる、鼓動が高まる。

 

幼かった自分が、「野生」を取り戻していく。

失くしていた自分の「本能」が徐々にその本来の姿を取り戻していく。 

現実世界ではあまり価値がない、必要とされていない自分の心の奥にあるものが、

表に出てくる。

 

この自分を取り戻すその姿を、僕は『成長』だと捉える。

曲の中でボーカルの声と共に、このもう一度自分を知る工程を、僕は『成長』だと考える。

 

 

曲の世界の中で赤子だった僕らが赤子ではなくなり、言葉を追って成長していった。

 

 

その姿は嬉しいことでもあるし、少し悲しいことでもあります。

何故ならこれで、この「成長の物語」は終わりだから。

 

僕らが美しいと感じるのは、あくまでその「成長していく姿」。

この「一番美味しい時期」が、もうすぐ終わる。

僕らが最も輝く期間が、曲の終わりと共に終わる。

 

 

音楽というのはとても短い期間でとても『長い時』を旅します。

音楽は『疑似成長体験』です。

再生時間 0:47辺りからは、ちょっともう、僕ら聴き手は「大人」なのかもしれません。

 

早すぎません(笑)。

さっきまで僕らは赤ちゃんだったのに・・・。

 

それはあまりにも一瞬、一瞬すぎる。

 

 

一瞬、だけどそれが儚(はかな)く美しい。

 

美しさは一瞬。

輝きを感じれるのは一瞬。

 

だからこそその瞬間が愛おしい。

だからこそその瞬間を大切にしたい。

 

 

残酷ってキュート。

キュートって残酷。

 

そろそろ曲が頂(曲のサビの部分。ここで実質曲は終わる。)に着きます。

 

その頂で、この曲と僕ら聴き手はお別れです。

 

 

 

「再生時間 1:04~曲の終わりまで」

 

曲の終わりの部分。

曲の頂(サビ)の部分。

曲の頂で、曲というのは実質終わる。

 

ここで僕ら聴き手は曲の世界から離れ、現実世界に戻っていく。

 

頭の中は、空っぽにして。

僕らの頭の中は、曲の中で掴み取った『色』で、満たされていた。

 

ここで音楽解析終了。

 

以下詳しい解説。

 

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曲と聴き手が最後に出会う時間帯。

 

ボーカルの声と聴き手がさよならのあいさつをする時間帯。

 

 

ここで聴き手は曲の力を借りて「跳んで」いく。

 

美しき頂で、僕ら舞う、そして跳ぶ。

 

とても美しく。

とても心地よく。

 

音の中で。

刹那の中の、現実ではないこの曲の世界の中で。

 

 

ただこの頂での舞いが美しく感じれるのは、それまでがあったからです。

 

このサビの部分が心地よく感じれるのは、曲のこれまでがあったからです。

 

この曲を聴いて、僕らが自分を知って、自分を成長することが出来たからです。

 

それまでの経過、過程、過去が、頂きを彩る(いろどる)。

自分自身への「暴き、さらけ出し、赦(ゆる)し」が、今の自分を祝福する。

 

 

この曲の頂き(曲のサビ)の風景というのは、ぶっちゃけ『白色』なのかもしれません。

ただその「白色」がただの「白色」には僕らにはもう見えない。

 

色の見え方は、その人次第。

色の見え方は、その人の後ろにあるもの次第。

色の見え方は、その人が背負ってきたもの次第。

色の見え方は、その人の歩み次第。

色の見え方は、その人の成長の、物語次第。

 

あなたは何色に見えますか? what 

COLORS

 

 

 

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なぜ音楽は僕らの心を動かすのか。

宇多田ヒカルの「COLORS」を聴いているとき、僕の頭の中はこうなっている。

 

音楽解析終了。

 

あとがき。

読み返すとやっぱ分かりにくいし、説明不足だし、

飛ばしすぎですね。

ただもう書いてて疲れたので、

また日を改めて添削(てんさく)したいと思います。

 

おつかれさまでした<(_ _)>。

 

追記。

9月17日文章修正。

 

9月24日追記。

また読み直して、分かりにくいところ訂正したりした。

やっぱ僕って文章下手だから、何回か直さないと分かりにくいな。

 

 

 

 

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