眠れない人のための「今夜はブギー・バック(小沢健二 featuringスチャダラパー)」徹底解析。~音楽と脳は混じり溶けあう~
こんにちはこんばんは犬飼です。
音楽って、何なんでしょうね。
久しぶりに聴くとすごく感動するけれど、
それでもやはり若い時よりは聴かなくなっている。
いつのまにか音楽から離れている。
音楽は自分にとってどういうものなのか。
何故若い時の方が聴いていたのか。
音楽は僕らに何を与えるのか。
そういう疑問が最近僕の中に湧いてきて、このブログで音楽をひとつずつ丁寧に解析していっています。
音楽を聴いているとき、自分の頭の中はどうなっているのか。
音楽が僕の頭の中でどういう化学反応を起こしているのか。
音楽を聴くことで得られる気持ちの変化を、詳細に調べてみたい。
そう思ったので今日も1曲、解析していきたいと思います。
今日は「今夜はブギー・バック(小沢健二 featuringスチャダラパー)」を聴いていきます。
YOUTUBEにある音楽動画の再生時間に合わせて、
自分の頭の中にどういう変化が起こるのか。
自分の頭の中にどういう映像が流れるのかを書き記していきたいと思います。
それでは動画を再生していきましょう。
「再生時間0:00~002」
いきなりの歌い手(歌手)の声から、この曲ははじまります。
今まで解説してきた曲はイントロは声はなく音のみからはじまるものが多かったのですが、この曲はいきなり声からはじまります。
以前解説したように、イントロというのは聴き手(聴く側)の曲における立ち位置を決める場所です。
曲を聴いていくうえで聴く側はどういう配役なのかを、イントロで決めていくことが多いです。
ただ曲がいきなり声で始まる場合、まだ聴き手の立ち位置が固まっていません。
このパターンは以前解説した「なんでもないや(RADWIMPS)」と同じですね。
曲が始まってまだ素の状態である僕ら聴き手の前に、急に歌い手が手を差し出してくる。
その声に僕ら聴き手はどう対応したらいいか、戸惑いがあります。
上手く呑み込めないまま、歌い手の声が僕らの頭に挿入されていきます。
前戯なしでいきなり突っ込まれるような。
出会いの形は多種多様です。
どれがいいとか悪いとかはありません。
ただこの曲は少々強引な、押しが強いな、という印象から僕ら聴き手と歌い手の出会いははじまりました。
続きを聴いていきましょう。
「再生時間0:02~0:22」
世の中は基本、2種類の生き物に分かれています。
それはつまり男と女。
永遠の、普遍的な絡み合い。
どこまでもどこまでも男は女を求め、
いつまでもいつまでも女は男を求める。
男と女の話題がおもいろいのは、それが種のためだから。
僕らは踊らされている。
踊らされているなら、気持ちよく、踊れるまで踊ろう。
再生時間0:02~0:22の間を聴いていて僕が感じるのは。
倦怠感(けんたいかん)です。
それはマイナスな印象というよりも、
走って走って、求めて求めて、
とても長く追い求めた結果の、果ての倦怠感です。
歌い手が最初に聴き手に提示する場所は、終わりの場所、終わった場所。
すでに到達している場所に、聴き手はいきなり歌い手に提示されます。
ここで何が行われていたのか。
今までここでどんなことが巻き起こっていたのか。
それをここ以降聴いていくことで、聴き手は分かっていきます。
終わりの場所は、今はもう味が薄くなっている。
絞りつくされしまっている、この場所。
時間を巻き戻していこう。
ここに何が詰まっていたか、探っていこう。
知りたい、知りたい。ここに何があったのか、ここで何が行われていたのか。
「再生時間0:23~0:44」
時が、巻き戻っていく。
曲の開始からいきなり歌い手の声で連れてこられた僕ら聴き手は、
相変わらず素の状態。
そう、僕ら聴き手は素なんです。
聴き手はまだ何も削がれてないし、与えられてもない。
いつもの、日常の僕ら。
自分のキャラクターを変えないまま、音楽は進んでいく。
どこで僕ら聴き手は変化するのか。変化しないのか。
時が巻き戻っていく中、僕ら聴き手は時間に取り残されたように、
その様子を見守っている。
周りは過去に向かっている。
僕ら聴き手はそれを少し離れたところから、観察している。
動く時空と、動かない時空が交錯している。
「再生時間0:45~1:05」
再生時間この辺りにして、ようやく僕ら聴き手は、
巻き戻っていく時空の中に入ることを許される。
ただ、ここは何だ。
考えることが、難しい。思考することが難しい。
あまりにも無秩序にこの空間の時は流れていて、
自分自身の形を見いだせない。
周りの景色が捻じ曲がるにつれて、
僕ら聴き手は何も考えることなく、自分もその曲がりに混ざり合っていく。
ゆっくりとゆっくりと。
まるで宇宙空間の中にいるようだ。
生きるという本能のみが微(かす)かに自分の中に感じれている。
それだけだ。それ以上は何も、見つけられない。
「再生時間1:05~1:25」
考えることが出来なくなった僕ら聴き手だけれど、
歌い手の声が耳から耳へと通り抜けていく。
耳に音が入り、反対の耳から音が出ていくことで、
僕ら聴き手は徐々に動けうるだけの電気(エネルギー)を与えられる。
ほぼ機械だ。
僕ら聴き手はほぼ機械になっている。
ここから、知っていこう。
ここから作っていこう、自分を。
機械の自分に何が加わっていくのか、観察していこう。
相変わらず歌い手の声は退廃的だ。
望んでいない、望まない。
機械の僕らはその状況をただただ、ただただ見ている。
見ているというか、視線の先に、それがたまたまあるだけ。
相変わらず僕らは聴き手は考えることやめていて、
クレヨンしんちゃんのボーちゃんみたいな状態になっている。
歌い手の声が相変わらず耳に入って反対の耳から出ていく。
相変わらず僕ら聴き手は聴いてはいない。
だけど徐々に、その声に意思を感じる。
今まで終わっていた歌い手の声が、何か伝えようとしているように感じてくる。
それはとてもゆっくりと。
その声はゆっくりとゆっくりと、
僕らを機械から人へと変えていく。
相変わらず終わっているのだ、歌い手の声は。
だけどどうして、僕ら聴き手はその声で、力を取り戻していくのだろうか。
「再生時間1:25~終わりまで」
僕らが動くのは何故だろうか。
僕らの足は、僕らを連れて行って、それで?それで?
動きたいならば、向かいたい所があるはずだ。
そうじゃなきゃ動こうとはしないはず。
どこへ向かおうとしている。どこに着こうとしている。
それは・・・やっぱり・・・、というか、本能的に、そこなのか?
今の僕にはそこという答えしか、答えを導きだせない。
そこ・・・ あそこ・・・。
あそこ。
相変わらず歌い手の声は死んでいる。
というより、死者に向けて放たれている、と表現した方が正しいか。
人に戻った僕らは今なら分かる。
彼(歌い手)はそうして、讃(たた)えていたのだろう。
生きるというのは、どこかに向かうこと。
動けるのなら、その身体がどこに行きたがっているのか、
その身体に聞くといい。
僕らの身体は、そんなに馬鹿じゃない。
今夜はブギー・バック
小沢健二 featuring スチャダラパー
眠れない人のための「今夜はブギー・バック(小沢健二 featuringスチャダラパー)」徹底解析。
~音楽と脳は混じり溶けあう~
終わり。
あとがき
今まで解説してきた曲のパターンにはない、独特の風味を感じれた曲でした。
ちょっと大人な曲ですね。
おもしろかったです。