眠れない人のための「月光(鬼束ちひろ)」という曲の楽しい聴き方。~常に楽しく。常に笑えるように、笑えますように。~
はいこんにちは、こんばんは、犬飼です。
昨日『なぜ音楽は僕らの心を動かすのか。宇多田ヒカルの「COLORS」を聴いているとき、僕の頭の中はこうなっている。』
っていう記事を書いたんですけど、
それが僕的には結構楽しく書けて、
それで今日は鬼束ちひろさんの曲を解析しようかなと思ったんですけど、
今午後10時30分で、午後12時前には寝たいので、
そうすると宇多田さんの記事の時みたいに長い文章書けないので、
今回は前回の記事を短くした感じで書いていこうと思います。
今回解析する、鬼束ちひろさんのこの『月光』という曲は好きですね。
僕が10代後半~20代前半の頃によく聴いていました。
では前回と同じように、YOUTUBEの再生に合わせて、書いていきたいと思います。
今回は記事を書く時間が少ないので、
詳しい解説は抜きで、端的に書いていきたいと思います。
それでは一緒にYOUTUBEの鬼束ちひろ「月光」を再生していきましょう。
再生時間に合わせてその時間僕が曲から感じたこと、思ったことを書き記していきます。
「再生時間 0:00~0:12」
再生時間 0:00秒から0:12秒まで。
音楽が始まる。
イントロが始まる。
自然と僕は笑ってしまう。
久しぶりに嗅いだ鬼束さんの曲の匂いに、僕は笑ってしまった。
曲におけるイントロは、僕ら聴き手を準備させる役割を持つ。
イントロの時間に、僕らはこれから入っていく曲の世界に備える。
現実の世界と一時の別れ。
僕らはボーカルの声(=鬼束ちひろさんの声)が聴こえてくる前に、
この『闇』の中へ、自らの身を隠す。
「暗闇」の中で彼女(=鬼束ちひろさん)を待つ。
僕らは僕らの姿かたちを忘れながら、捨てながら。
とても『低い』ところから、彼女がやってくる。
僕ら聴き手の『下』から、彼女がやってくる。
以下詳しい解説。
・・・。
ふふふ、笑える。
・・・。
音楽ってやっぱり・・・いい問題(クエスチョン)ですよね。
音楽って、その「音」が僕ら聴き手に『?』を投げかけてきますよね。
また音楽ってやっぱり、いい頭の体操ですよね。
音楽を聴くとその音が、僕ら聴き手の頭の中を駆け巡っていく。
音楽の音に促されて、僕ら聴き手の頭の中も活発になっていく。
音楽は強制的に聴き手に問わせる・・・。
音楽の中で、僕ら聴き手は自問自答し続ける。
YOUTUBEの再生ボタンを押して、イントロがはじまりました。
どうでしょう・・・(曲の音から感じたことをどう言語化しようか考え中)。
・・・。
どういう風に、この音楽は聴き手(僕たち)を『縛って』いくのか。
どういう風に、この音楽は聴き手に『道』を作っていくのか。
イントロというのは音楽の中でとてもとても重要で、
イントロは僕たち聴き手を現実世界から「切り取って」きます。
僕ら聴き手自身のすべてが音楽の世界に吸い込まれるのではなく、
僕らの一部が、音楽とともに音楽の世界の中の「道」を歩く。
僕らの一部が、音楽に「吸い込まれて」いく。
1つの曲というのはとても長い長い道のりで、
それはとても僕ら聴き手のお腹を満たしていく。
曲の世界を長く旅していくことで、
僕ら聴き手は数分のうちに、抱えきれないほどの「体験」を得ることが出来る。
この曲も前回解説した宇多田ヒカルさんの曲と同様、
イントロというのは『潜り』の時間になります。
イントロというのはまるで夜行列車に乗ろうとしている時間。
イントロというのは出発する前の、支度をする時間。
ボーカルの声が始まる前に僕ら聴き手自身が、曲の『風景』に馴染んでいく。
今までいた場所(=現実世界)と離れて、新たな場所に移動していく。
イントロでは、僕ら聴き手自身が、曲の一部となっていく。
イントロでは、僕ら聴き手自身で現実世界と別れを告げる。
一時的な、現実世界との「離れ」。
一時的な、曲の世界の中への「旅立ち」
イントロで、僕らは曲と同化していく。
僕ら聴き手は一度『電気を消して』、暗い暗い入口へと向かっていく。
一度僕らは、僕らの姿を捨てる、忘れる。
そっちの方が、都合がいいから。
これから待ち受ける今回の曲の世界の場合、
一度自分を消して、自分の姿を無くした方が、僕らにとって、都合がいいから。
ボーカルの声(今回で言うと鬼束ちひろさん)がやってくる前に、
僕らは一度、暗闇に染まっていく。
暗闇に身を潜みながら、彼女を待つ。
深い深い所から、彼女がやってくる。
「再生時間 0:12~0:39」
低い場所からやってきた彼女は自分から「解」を示さず、僕ら聴き手に拾わせる。
掴みづらい曲の雰囲気の中に、「破壊」の匂いがする、「自傷」の風が吹く。
曲の世界の中で、僕ら聴き手は曲の世界に同調してしまう。
いつしか僕らも「破壊」の中に入っていき、その中で 『悦び』を感じてしまう。
曲が進むにつれ、僕ら聴き手はどんどん自分を壊していく。
とても気持ちよく、今の自分を打ち消していく。
この先に何があるのか。
この「破壊」の先に何があるのか。
何度も投げかけられる「問い」に僕は答えられぬまま、曲は続いていく。
以下詳しい解説。
前回解説した宇多田ヒカルさんの曲の「COLORS」とは違って、
今回の曲のボーカルの声(鬼束ちひろさんの声)は、とても低いところからやってきます(低姿勢)。
その「低い」というのは物理的でもそうですし、「精神的」にも低く。
聴き手のまるで「下」から。
低い低いところから、彼女はやってきます。
前回解説の「COLORS」の時のボーカルの声が、僕ら聴き手を「攻める」ようなのに対して、
こちらは逆に鬼束さん側の方にまだ僕たちに対して、
「畏怖(もしくは敬意)」が残っているよに、僕は感じます。
(音楽っておもしろ(笑)。)
「COLORS」という曲が攻めて、そして与えてきたのに対して、
この「月光」という曲は攻めてこず、歌い手側の方が聴き手より『下』にいる。
めずらしいですよね、こういう曲って。
「COLORS」が攻めることで、僕ら聴き手に対してその『解(=答え、真理)』を「示してくる」のに対して、
この「月光」という曲は攻めなんてせず(=聴き手に寄ってこず)、
聴き手が心配して鬼束さん側に「寄ってしまう」ように僕は感じます。
僕ら聴き手に「寄る」のではなく、「寄らせる」、「招かせる」。
『解』を自ら示すのではなく、僕ら聴き手に「拾わせる」ように。
曲における曲側の(=ボーカル側の)『解』の提示の仕方って色々ですよね。
鬼束さんの曲って、久しぶりに聴いてみてやっぱ独特というか、
やっぱ・・・、う~ん・・・、おもしろい。
こういうタイプの曲って珍しいです。あまりないです。
やっぱりこういうおもしろい問題を「解」くのが楽しいです、僕は。
さて、ボーカルの声がこの時間帯で聴こえ始めて、
僕らは聴き手が今どこにいるのか、どこに向かっているのか、
そしてどこに向かわされているのかを考える(=その音から感じ取る、連想する)。
前回の「COLORS」とは違って、その示される場所、方向ははっきりしない。
鬼束さんの声から展開しうる「イメージ」が、掴みどころがない。
いざある方向に何か見えたのでそこに向かってみたら、何もない。
またある方向に何か見えたので向かってみたら、また何もない。
前回の「COLORS」とは違って、曲の世界の空気を掴みにくい。
曲の世界の様子がとても『流動的』。
あるものが浮かび上がっては消えて、また何かが上がっては消える。
曲の世界のものが常に移動し、変化し続ける。
その曲の世界の変わりように呼応するように、
僕ら聴き手の心もぽっかりと空いたままだ。
何かを心にいれようにも、すべてが流れ、また形が留まらない。
不思議な世界。
変わった曲の世界の中に、僕らはいる。
もう少し、この世界の様子を観察してみる。
掴みにくいこの世界を、捉えにくいこの世界の『変化』を感じ取ってみる。
この『流動的な』、常に何か動き続けるこの世界の「規則性」を感じ取ってみる。
観察してみて、感じ取って僕が思うのは、
この世界のこのゆるやかな動きは、どちらかというと『崩壊』に向けた動きだなとたぶん思う。
その動きは何かを「創る」というよりも、何かを「砕いていく」、「壊していく」動きだなと僕は思う。
この曲のこの時間帯で、「破壊的行為」が行われている
この曲のこの時間帯で、「壊す動き」が垣間見える。
「壊す動き」とは何か。
何かを壊すという動きには、何が伴っているのか。
破壊について考えてみよう。
破壊と関係性の高い、創造についてもついでに考えていこう。
創造と破壊。
それらについて、以下少し述べていきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと話が逸れるけど、「創造と破壊」に関する話を。
僕らの『楽しさ・気持ちいい』という感覚・感情は、永遠には続かない。
あることが好きでそれに夢中になると、いつかは飽きてしまう。
あることが好きでそれを考えていると楽しく、気持ちよくなれるけれど、
いつかはそれに飽きて、それから楽しさ・気持ちよさを感じれなくなる。
そして飽きて、「壊して」しまう。
飽きて、「捨てて」しまう。
そしてまた違うのを「創って」、そしてまたそれに飽きて、それから楽しさ・気持ちよさを見いだせなくなって、それを壊してしまう。捨ててしまう。
飽きて壊して別のものを作って。また飽きて壊して別のものを作って。
創って気持ちよくなって飽きて、壊してまた創って気持ちよくなって。
僕らは『楽しい・気持ちいい』という感情に、翻弄(ほんろう)され続ける。
いつしか僕らはその「創ること」を望むあまり、
その「創る」につながるための「壊す」という行為すら、『楽しさ・気持ちよさ』を感じてしまう。
創る→楽しい→飽きる→壊す→気持ちいい→創る→楽しい→飽きる・・・。
「創造と破壊」という行いの循環の中に、
僕らのその「快感を渇望(かつぼう)し続ける姿」が見え隠れする。
僕らは自分を満たすために、創り、そして壊していく。
僕らは自分を気持ちよくさせるために壊し、そして創り上げていく。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
話をこの曲に戻します。
その創造と破壊の連鎖の中の「破壊」の部分、『壊す快感』、『崩壊していく快感』。
これが、この曲のこの「再生時間 0:12~」あたりで僕が感じたものです。
創られたものが壊れていく、創造されたものが崩壊していく。
壊す快感。壊れる快感が、曲の世界に充満していく。
「破壊」の空気が、僕たち聴き手にも誘発されていく
曲の中の雰囲気に、僕ら聴き手は同調していく。
ものが「壊れていく」の曲の世界の匂いに、僕らの鼻が慣れていく。
そしてこの曲の中で僕たち聴き手はこの曲の空気に呼応して、
「今までの自分」を壊していく。
「今までの自分」を崩壊させていく。
そこに「悦び」を感じてしまう。
今までの自分を「壊す」ことに、気持ちよさを感じてしまう。
曲が進んでいくにつれ、その空気が強くなる。
今の自分を、どんどん砕いていく、打ち消していく。
壊して壊して壊して、跡形もなく自分を消したい自分がいる。
どんどん壊して、粉々にして、自分が小さく小さくなっていく。
曲の世界観につられて、自分を壊す快感にどんどん溺れていく。
自分を壊す快感にどんどん酔っていく。
がおー、がおー。
がしゃん、がしゃん。
まるで自分は獣になって。
まるで自分は怪獣になって。
僕らはどんどん、自分を破壊し、今の自分の存在を否定していく。
自分を創ることは何故必要か。
自分を壊すことから何が生まれるのか。
音楽は常に僕らに「?」を投げつける。
「再生時間 0:32~」あたりの「こんなものの~」あたりは聴いてて超気持ちいですよね。
それはまるで壊れる僕ら聴き手に対する「鎮魂歌」のようで。
それはまるで消えていく僕らの存在に対する鎮魂歌のようで。
僕らは答えれるのか。
僕らはこの曲の中で答えを導けるのか。
曲の中で僕らは何度も自問し続ける。
答えることはできないままに。
「再生時間 0:39~1:04」
一旦ボーカルの声が僕らの目の前から去っていく。
去ったことで、僕らの緊張が解けていく。
緊張を解かれた僕らは、思考に「ゆとり」が生まれてくる。
緊張を解かれた僕らは、何か考える余裕が生まれる。
先ほどの時間帯で自分を壊してしまったので、
壊してしまった自分を創りなおそうとする思いが生まれる。
僕らは手近な自分のちょっと昔の自分を思い出す。
僕らは手頃な少し過去の自分を求めていく。
この休憩の間に、僕らは静かに少し昔の自分と向き合う。
お互い無言のまま、ただただお互いを、観察し合っていた。
以下詳しい解説。
再生時間 0:39~からは一旦休憩です。
は~いみんな、休憩の時間よ~。
お昼寝でもする?。するするぅ~。
(幼稚園の時、お昼寝タイムみたいなものがあったような・・・。)
この間奏(かんそう)の時間が笑えるというか、僕は少しニヤニヤしました。
「再生時間 0:12~0:39」の間、結構張り付いていた、緊張していたので、
ちょっと一呼吸つけて、ほっとしました。
音楽のこういう「間」は、僕は好きです。
こういう曲内の「緩急」に、僕は少しにやついてしまいます。
自分がいいように曲に翻弄(ほんろう)されているなあと感じます。
曲にうまく料理されていなと感じます。
そして僕ら聴き手は、この休憩の時間で少し考える。
緊張を解かれた僕らは、思考に「幅」が生まれてい来る。
それにしても、今は僕らはどこにいるのかな?
ここはどこかな?。
ここは未来というより、ちょっと過去の世界かな。
ここは今からそんなに遠くないけど、ちょっと昔にいるような。
曲の休憩の時間帯に、少し昔の匂いを感じて、
僕はちょっと昔を思い出します。
ちょっと昔の自分に会いに行きます。
今の自分を先ほどの「再生時間 0:12~0:39」の時間で壊してしまったので、ぽっかりと空いている自分の器を埋めるために、昔の自分に会って、器に昔の自分を入れていく。
壊してしまった今の自分を創りなおすために、
参考のために「今」から少し近い「過去」に会いに行く。
近い過去の昔に会って、昔の自分の「型」を見る、観察する。
休憩の時間に僕らは静かに、昔の自分の姿を見続ける。
まるで僕らは僕らの今まですべてが展示してある博物館に来て、
近現代の自分を調べに来ているよう。
自分しか展示されていないこの博物館で、
僕らは1対1で、向き合い続けていた。
僕らは少し過去の自分と、対峙し続けていた。
静かな時が、流れていた。
僕らは静かに、集中していた。
「再生時間 1:04~1:43」
繰り返しの中で、僕らは次第に、その声の奥へと入っていく。
その声の中で僕らは呼吸をし、そして漂(ただよ)う。
温かく包まれて。
優しく迎えられて。
ゼロになった自分を俯瞰(ふかん)する。
ゼロの自分を静かに見つめる。
戻っていくのが惜しい。
ここにずっといたい。
それでも僕らは戻るのだ。
僕らが僕らであるために。
僕らが僕ららしくあるために。
そして破壊と創造の連鎖に戻っていく。
そして始まりと終わりの循環に入っていく。
こことお別れをして。
ああ、悲しい。
ああ、寂しい。
以下詳しい解説。
前回解説した「COLORS」の時でも、音楽は「繰り返し」が大事と説明しました。
今回、この「再生時間 1:04~1:43」も繰り返しの時間。
「再生時間 0:12~0:39」の繰り返し。
何の繰り返しかというと、それはリズム的な繰り返しではなく、
この曲の「音」が発する意味の繰り返しが、この時間帯僕ら聴き手に伝えられています。
つまりこの時間帯でも、曲の世界の「破壊」は絶え間なく行われており、
それに呼応して僕ら聴き手も先ほどの時間の続きの、今の自分を「破壊」をし続ける。
音楽は何度でも、僕らに「試練」を与える。
僕らが「試練」を乗り越えるまで。
僕らが自分を「創れる」まで。
ここでも繰り返し「破壊」されている、「壊されて」いると言っても、
「再生時間 0:12~0:39」よりかはあまり『怖さ』を感じません。
それは少し僕らがこの「壊し」に慣れてきたから。
この曲の世界の空気に慣れてきたから。
慣れてくることで見えてくるものがある。
ものの「中」に入ることで、そのものの真意を探ることが出来る。
僕らは自分を「壊し」続けながら、その声の中心に向かっていく。
ボーカルの声の、奥へ奥へと入っていく。
僕ら聴き手は「積極的に」、ボーカルの声へ近づき、その奥へと入っていく。
この曲の世界のすべてを知っている、ボーカルの声の中へ。
この曲の世界が行っている「破壊」の意味を知っている、ボーカルの声の中へ。
僕ら聴き手とボーカルの声が、どんどん合わさっていく、重なりあっていく。
やがて僕らはその声の、中心へと入っていく。
ボーカルの声の中心で、僕らは「呼吸」し、そしてこの曲の世界の様子を見る。
温かく守られながら、そして自分が「崩壊」されながらも、
僕らはしっかしとこの曲の世界の景色を見ていく。
すべてが壊されていくこの世界で、自らも崩壊していく中で、
僕らはゆっくりとその景色を自分に重ねていく。
そしてゆっくり瞳を閉じて、壊されて『無』になってしまった自分の意識中で、
僕らは一度、すべてを失う。
自分がいない世界が、心地いい。
自分がゼロになれた感覚が、とても新鮮だ。
とても気持ちいい。
とてもすがすがしい。
生まれることを、拒否してしまう。
また「創り」を始まることをためらってしまう。
自分のすべてが「破壊」された世界に酔って。
自分のすべてが失われた状態が気持ちよくて。
僕らは長い間、ここに浸かってしまう。
僕らは許される限り、このゼロな自分で居続ける。
この曲の世界はそれを許容する。
ボーカルの声は温かく優しく、僕らを守り続ける。
始まらせるのが惜しい。
この曲の世界から出ていくのが悲しい。
・・・。
僕らは何を望んでいるか、
僕らは何を望んでいたか。
ゼロな自分に対して、少し昔の自分がうるさく問いかけてくる。
返事をするのが面倒だ。
僕はいつまでもここに浸かっていたい。
しかし、しかし僕らは『あの連鎖』からは逃れられない。
その連鎖に楽しさを見出す限り。
その連鎖に気持ちよさを見出す限り。
悲しい『性』がここにある。
悲しい本能が僕らに備わっている。
創造と破壊。終わりと始まり。
僕らは僕らを壊していくと、壊して終わりではない、終われない。
僕らはまた、循環していかないといけない。
僕らは僕らをまた、創り出さないといけない。
新しい自分を。
未来の自分を。
自分がある限り。
自分を祝福し続ける限り。
連鎖はし続ける。循環はし続ける。
創ることが始まったらそれは、壊すことも始まっている。
壊すことが始まったらそれは、創ることが始まっている。
始まって終わって。
終わって始まって。
またこの連鎖がやってくる。
またこの終わりのない循環をし続ける。
疲れても疲れても、それはずっと、繰り返されていく。
僕らの創造と破壊は止まらない。
僕らはまた、始まりと終わりを繰り返していく。
僕らはそれを絶やさないことで、
今のこの一瞬の中の、自分を知ることが出来る、掴むことが出来る。
一時代の中で、一生の中で、一期間の中で、一日の中で、一瞬の中で、
僕らは僕らの「顔」を知る。
僕らは僕らの「存在」を認める。
一瞬の中で僕らは笑う。
一瞬の中で僕らは泣く。
この曲で君は何を感じる。
この曲で君は何を見る。
ああ、『はじまった』のはいつだったのだろう・・・。
「始まりの合図」はいつ鳴らされたのであろう。
曲の終わりを感じてはじめて僕らは、「後ろ」を振り向くことができる。
「始まり」を探ることが出来る。
「始まり」に触れることが出来る。
「創造」を始めることができる。
もうすぐ曲が終わるので、ここで少しこの曲を振り返ってみる。
この曲というのは、とてもシンプル。
前回解説した「COLORS」という曲が多方向に物語が展開していたのに対して、
この曲は一本道だと思います。
そのシンプルな一本道の、少しの往復、少しの繰り返しが曲内で行われています。
「再生時間 1:17~」からやttボーカルの声がが「攻めて」くるのがおもしろい。
ここでやっと「攻め」を感じる。
ここでやっと僕らの「背中」を押してくる。
前回解説した「COLORS」という曲が、ボーカルの声が聴こえ始めてすぐに僕ら聴き手に攻めてきたのに対して、この曲は終わりに近づいてようやく攻めを見せる。
そういう意味で、優しい曲ですよね。
待っていてくれた曲。
聴き手を等しく拾ってくれる曲。
「遅れている子」にも、対応している曲。
「再生時間 1:24~」もさらに攻めてくる。
この攻めを「受ける」方法は、もう僕ら聴き手は知っている。
この攻めを「受け止める」用意は、すでに僕ら聴き手は出来ている。
受け止める方法は、もう教えてもらった、この曲の世界中で、ボーカルの声の中で
僕ら聴き手の気持ちがすでに、「創造」に向かっている。
「再生時間 1:24~」から徐々に上がっていく。
僕らがまた、その連鎖に入っていく、その循環に入っていく。
それにまた入っていくことが、聴き手に容易に分かる。
何となく入っていくことが、感じ取れる。
実際分かりますよね、何か、来る的な。何かそこに戻っていく自分の気持ちが。
何かそこは、どこか昔に見た聞いた、触れたことがあるような・・・。
どこかそれは・・・、すごくはじめの時の・・・、思い出せそうで思い出せない・・・。
僕らはずっと欲している。
僕らはずっと求めている。
この繰り返される世界の中で。
この絶え間ない連鎖の中で。
この絶え間ない、創造と破壊の中で。
この絶え間ない、飽きと気持ちよさの中で。
この絶え間ない、終わりの始まりの中で。
僕らは僕らであり続ける限り、創造と破壊の連鎖を欲し続ける。
僕らは僕らであり続ける限り、始まりと終わりの循環を欲し続ける。
そろそろ出口が近づく。
そろそろ終わり、始まっていく。
「再生時間 1:43~曲の終わりまで」
曲の頂(サビ)で、僕らはこの世界とお別れしてく。
曲の頂(サビ)で、僕らはボーカルの声とお別れしていく。
僕は僕が、この曲の世界に自分がいた証拠を、ずっと探していた。
自分の身体の匂いを嗅いで、曲の世界の匂いが残っていないか、ずっと嗅ぎ続けていた。
弱い自分に、また戻った。
日々を生きることで必死な自分に、また出会った。
ここで音楽解析終了。
以下詳しい解説。
・・・。
・・・。
(笑)。
・・・。
・・・。
(笑)。
・・・。
つながる。
・・・。
・・・。
そして、離れる。
・・・。
・・・。
前回解説した「COLORS」とは対照的な頂(いただき)。
頂きなのに、どんどん離れていく・・・。
ボーカルの声と離れていく。
曲の世界と離れていく。
離れていく・・・。
離れていく・・・。
離れていく・・・。
うわ、すげー悲しい・・・。
僕は今までどこにいたんだろう・・・。
僕はこれからひとりで、どこに向かえばいいのだろう・・・。
自然と涙を流す。
感謝の思いがあふれ出てくる。
僕は残り香を、ずっと嗅いでいた。
君の匂いを、ずっと求め続けていた。
創造と破壊。
儚(はかな)い創造と儚(はかな)い破壊。
すべては一瞬。
すべては一瞬で創られ、一瞬で壊されていく。
生きている限り、創り続けなければいけない。
もし生きるなら。生き続けるなら。
破壊して創られた、道を進んで。
破壊して創られた、歴史を歩んで。
月光
鬼束ちひろ
眠れない人のための、「月光(鬼束ちひろ)」という曲の楽しい聴き方。
~常に楽しく。常に笑えるように、笑えますように。~
終わり
9月17日加筆修正。
9月24日。
2回目の文章修正。
気づいたんだけど、今回の解析って、ちょっと分かりにくいね。
書いてる時は自分の書いている文章に酔っているんだけど、
いざ日を改めて読み返してみると伝わっていない箇所が多いなと感じた。
前回の「COLORS」よりも分かりづらいかな。
「創造と破壊の循環」の説明が、ちょっと強引かなと思った。
この記事はまた文章修正するかもしれない。
記事の最初の方で手短に書くと言っておいて結構長いし。